教材研究は、本を読むことだけではない

Posted By taga on 2013年9月26日

若い先生の「ごんぎつね」の指導計画を

いっしょにたてていた。

ともかくいそがしくなるというので、

二週間分の計画を作っていった。

 

「教材をよく読んでくること」

僕が言ったのは、それだけだったが、

本当によく読み込んできた。

 

「わたしが子どもに聞かれたら、なんと答えたらいいかと思って、

困る言葉がこれです。」

と、ピックアップしてきていた。

 

「びくって、知りませんでした。」

そうなんだ!

僕はびくに引っかかったことは一度もない。

光村版の「ごんぎつね」では、びくの絵が脚注にのっていたからだ。

東京書籍版でも、黒井健さんの絵でびくは二回も描かれている。

ただし、「これがびくです」とは書いていない。

きっと子どもたちもそうなんだろうなあ。

脚注と挿絵の違いを、僕自身が改めて思った。

 

「シダは、どう説明しましょう?

写真がデジタル教科書に載っているかも知れません。」

「いや。できれば、言葉で説明しなさい。

言葉から想像して読むようにさせよう。

基本的に読み取りの授業では実物や写真をわざわざ持ち込まない方がいい。」

 

教材文には、たくさん―線が引かれている。

本当によく読み込んでいる。

 

「先生、このお話って、続きがあるんですか。

なんか終わっている感じがしなくって。」

「ここで完結だよ。

ときどき続き話を書かせる愚かな先生がいるけれど、

作品は台無しになる。

この最後の『青いけむりがつつ先から・・・』というところに

余韻があって、ごんと兵十との間にただようこの煙の感覚って

大事なんだよ。」

「そうですよね。この一文がなくてもお話はおかしくないのに、

わざわざ書いてる感じですよね。」

 

自分で読み込んでいるから、

すっと言葉が出てくる。

教材との距離が近くなっている証拠だ。

 

彼女は気づいていないが、

僕はこのやりとりを通して、いくつもの新しい発見をしている。

若い、初めて「ごんぎつね」を教える教師だからこその言葉に

僕が教えられる。

 

教材研究は、先行研究の本を読むことだけではない。

それも大切だが、何よりも、

自分がどれだけ教材と向き合ったか、という時間が必要なのだと思う。

 

 

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