多賀マークの教室日記

教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。

『全員を聞く子どもにする教室の作り方』14刷り

Posted By taga on 2016年10月1日

『全員を聞く子どもにする教室の作り方』
14刷り増刷になった。
毎年、いくつかの学校で「聞くこと」についての話を
させていただく。
今年も奈良で2回、2時間以上かけての話をした。

どこでも、一番必要なことだとみんなが考えるからだろう。
聞くことができない教室は荒れる。
聞き合えない共同学習は成立しない。
聞くことは、すべての基本につながる。
人の声を聞かない人間に進化はない。
僕はこの数年でもう少し「聞くこと」を
自分なりに深めてきたように思う。
『だいたいを聞く子どもにしたい教室の作り方』
なんて本はだめだろうなあ。
聞くことに関しては、いつかもう一度まとめて本にしたい。
新しい課題に対する「聞くこと」にもなんらかの提言ができると思うんだけど・・・。

教室の「あの子」 ③

Posted By taga on 2016年9月25日

使う言葉の吟味
「障害」という言葉は、
やはり人格否定されたような感じがしないだろうか。
「自分の子どもを障害者と呼ばれたくない」という、間違ってはいるが、当たり前の親心というものがある。
学校現場で医学的用語を使う必要などないのではないかと、いつも思っている。
「自閉症」という言葉は、引きこもりや閉じこもりを連想させる。
直訳すれば「自ら閉ざした症状」ということになって、この字がイメージを作ってしまう。
自分勝手なんだとか、親のしつけの問題だとか言うひとがいるのは
この言葉のニュアンスが影響していないのだろうか。
「自閉症スペクトラム」は、「オーティーズ」って言うと、
なんとなくアバウトでかっこいいニュアンスに変わる。
「うちの子、自閉症みたいなの。」
とは、言いにくくても、
「うちの子ってさあ、オーティズムなんだよね。」
なら、話しやすく感じないだろうか。
そんなに軽くないか。
漢語は、ものごとを適当にしないで、はっきりと示す。
法律用語や医学用語としてはそれで良いかも知れないが、
教育の現場では、それがレッテルになってしまったり、
子どもの状況を正しく言い表さなかったりすることもあるのかも知れない。
(以前の書き込みを書き足して・・・)

教室の「あの子」 ②

Posted By taga on 2016年9月25日

「知らないことが意地悪になる」理論
 白い杖をついて歩いている方がぶつかってきたとき、
「バカ野郎!どこ向いてあるいているんだ。」
と、怒鳴る人はいない。
どちらかというと、気づかなかった自分を恥じる。

 片側の耳が聞こえないという障碍を持った子どもがいた。
 その子を聞こえない方向から呼んでも呼んでも返事をしないので、
「ちゃんと人の話は聞きなさい、」
と、叱った先生がいた。
しかし、叱られた子どもの方は、聞こえていないのだから、
なんで叱られたのかが、全くわからなかった、ということがあった。
ぱっと見て目に見えない障碍は、とらえにくく、
意地悪になってしまうことの端的な例である。

教室の「あの子」も
障碍が分かりにくい。
だから、いじめやいじわるの対象になりやすいのだと思う。
「ちがい」がわかりにくいからだ。

教室のあの子 

Posted By taga on 2016年9月24日

幼稚園の先生から、
「あの子」が大きな音でパニックになるという話を聞いて、
一年生の担任が全く子どもたちの音読をしなかった
ということがあった。
話を聞いたときに、それはどうかなと思っていたが、
2年の担任になった先生と顔見知りだったので、
相談に乗った。
 ヘッドフォンをつけるか、そのときだけ教室を出て行くか、
「いずれにしてもやってみることだね。」
と伝えた。
でも、ともかく全員で音読をしてみたら、
特に問題は起こらなかった。
このことは、「あの子」を意識しながらも
ともかくふつうにやってみて、
その中で子どもがどう反応していくかを見ながら、
その子に応じた方策を考えていくことの必要性を物語ってないか。

仙台親塾 12月2日です

Posted By taga on 2016年9月22日

仙台親塾も6回目です。
今回は、学習について語ります。
子どもにどの程度家庭学習させればよいのか。
どう工夫したら子どもの力になるのか。
「読み聞かせ」や読書がどのような効果を持つのか等、さまざまな疑問にお応えします。
精神面と具体的な方法の両面についての話です。
就学前のお子さんを持たれる方は、今から、何が必要なのかということも。
今、学校に通っている場合は、国語の学習方法や算数の考え方について、具体的な話をします。

日時
2016年12月02日  9時半~11時半
開催場所
仙台市内中心部
今のところ東京エレクトロンホール
参加費
2,000円(税込)
定員
20人(先着順)

申し込みはこちらからどうぞ

http://kokucheese.com/event/index/426921/

絵本の結婚式

Posted By taga on 2016年9月20日

函館の結婚式に参加した。
新婦と出会ったのも函館。
セミナー講師としてきた僕の運転手を務めてくれた。
それが出会い。
この後、苦しいことがあり、
ずっと相談にのってきた。
うちの家にも来て、一日、授業づくりの計画も立てた。
いつも、絵本を学級で読むようにと
毎週、
「この絵本とこの絵本、図書館にあるかな。
なかったら、土日に手に入れておいで。」
と、絵本を奨めてきた。
でも、もともと絵本心のある先生だった。
新郎も絵本を大切にしてきた先生。
出会いは、必然だったのかも知れない。

式場は入口から絵本での出迎え。
いたるところに絵本が置いてある。
それぞれのテーブルにはお花の代わりに絵本が。
僕らのテーブルには『じごくのそうべえ』。
同じテーブルには、千歳の絵本セミナーの面々。
絵本のストーリイに沿ってのメッセージ探し。
会場内で流すビデオは絵本風にめくり読み語り。
最後に会場を出る二人は『life』の絵本を胸に抱いていた。

絵本は人を幸せにする。
そのことを実感できた。

カープ優勝

Posted By taga on 2016年9月10日

僕は50年以上に渡るカープファン。
なんでずっとカープファンかというと、
カープにはドラマがあるからだ。
貧しくても美しいドラマがたくさんあった。

お金のない球団が初優勝したとき、
僕は浪人していたんだけど、山本浩二の涙の優勝インタビューに泣いたなあ。  

ここ数年の低迷で
生きている間はないかなと思っていた優勝。
力のついた選手はみんな阪神や巨人がお金で持って行ってしまう。
今年は前健まで海外にいっちゃうし。
まあ、ないと思っていた。
夢みたいだ。

ゆっくり祝杯。

神戸で「女性教師から学ぶ」会をします。

Posted By taga on 2016年9月8日

今の時代、これまで学校の中心であった父性的な教師のあり方だけでは、やっていけなくなりました。
北海道から宇野弘恵先生。千葉から藤木美智代先生を神戸にお迎えして、
子どもの受け止め方・学級づくり・授業でのコミュニケーションなどを話していただきます。
しなやかな教育の在り方というものを、一緒に考えませんか。

日時 2017年 1月9日[月] 9時45分~16時40分
場所 兵庫私学会館
参加費 4000円
懇親会 近場で3500円で
9時45分~10時15分 多賀 「なぜ今、女性教師なのか」
10時20分~11時10分 宇野 「私の学級づくり」
宇野さんの学級はなぜ楽しく安定するのか。その秘密の一端を。
11時25分~12時15分 藤木 「手作り紙芝居道徳」
千葉では有名な藤木さんのオリジナル教材。関西、初公開。
 -昼食ー
13時30分~14時30分 宇野 「授業と高学年の子どもの受け止め方」
14時40分~15時40分 藤木 「授業と子どもの受け止め方」
おそらく多くの方が聞きたいところを、二人にたっぷり語ってもらいます。
15時50分~16時10分 これからの教育を考える。
  フロアのみなさんと講師とで、グループに分かれて語り合う。
16時10分~16時40分 鼎談 「これからの教師像・学校像」

この三人での会は、これが最後になります。
申し込みは下記サイトから。

http://kokucheese.com/event/index/424825/

新学期は、子どもをよく見ることから

Posted By taga on 2016年9月3日

二学期がスタートした。
長い学期が始まる。
子どもたちは、どんな様子だろうか。

この時期は、ともかくよく子どもを観察することだ。
夏の間に子どもの環境がどう変わったのかもしれない。

一学期の続きの子どもが座っていると
思わない方がいい。

じっくりと、よく観察すること。
子どもの一人一人と対話すること。
子どもの思いがどこにあるのかを
つかむこと。

それをつかめずに爆発した例が
いくつもある。

二学期のスタートは、
11月以後の学級のあれにつながりかねないのだ。

なんとも羨ましい

Posted By taga on 2016年8月31日

『果てなき便り』 津村節子
この本は、『戦艦武蔵』の吉村昭と芥川賞作家の津村節子夫婦の
手紙のやりとりを、ただ羅列しているだけといってもいいだろう。

作者本人も、「とりとめのない手紙の羅列」と呼んでいる。

僕が生きてきた時代と
ただ純粋に文学を糧とした二人の人生がリンクされる。
僕の世代だからこそ、いろいろなことが思い出されて
二人の手紙に重なる。

昭和を彩った作家たちがふつうに登場してくる。
それもまた、おもしろい。
今のように「〇〇賞」という文学賞が乱立していない時代。
文学を志す者にとって同人誌の意味は大きかった。
いかにして認められるか、大変な時代だった。
簡単には作家になれなかった。
本当にプロしか認められなかった。
片手間の小説がマスコミでもてはやされて売れていく今とは、違うということだ。

二人の作家が伴侶として愛し合い続けたことも美しいが
お互いの才能を敬愛し、作家として生き続けたということが
静かにひびいてくる。
書くということが、まさしく生きることそのものであった。
それを夫婦で全うした二人は、なんとも羨ましい人生だなあ。