手塚治虫の認知度

Posted By taga on 2013年12月23日

五年生の伝記文の教材研究を一緒にしている。

「手塚治虫の漫画を読んだことあるのかな?」

「いいえ。私は、平成生まれですから、手塚さんの亡くなった年に生まれているんです。」

「じぇじぇじぇー。」

 

「この文の冒頭に、『鉄腕アトム』『ジャングル大帝』『ブラック・ジャック』『火の鳥』。と書いてあって、

『だれもがよく知っているこれらの作品…』とあるけど、

子ども達は、ほとんど知らないから、

この大前提が崩れるよね。じゃあ、ここをどう入っていきますか?」

 

さあ、難しいところだ。

文章は、高学年にもなると、他の写真などの「モノ」を使わないで

文章から入って、文章で終わるべきである。

しかし、この最初の一文の大前提が成り立たない以上、

伝記を読んでいくというモチベーションにつながらない。

 

「子どもに教えるかどうかは別として、

冬休みに僕の漫画を貸してあげるから、手塚治虫を呼んでごらんなさい。」

と言って、「どろろ」と「ビッグX」を貸してあげた。

 

ふつう、伝記を手に取って読もうとするとき、

ほとんどの場合、その人物についての知識がある。

「坂本竜馬って、社会の教科書にも出てきたけど、どんな人だったんだろう。」

「ディズニーって、ミッキーマウスを作った人でしょ。」

「野口英世って、お母さんが言っていたお医者さんだ。」

「イチローみたいになりたいなあ。」

そういうモチベーションがある。

ところが、教科書に載っている伝記の人物は

ときには、子どもたちにとって初めて出会う名前だということがある。

 

本来は、読み取っていきながら、人物の業績も理解していくべきだ。

従って、どんなことをした人物かを前もって説明する必要はない。

アンリ・デュナンを知らなくても「赤十字の父―アンリ・デュナン」は読める。

しかし、この文章は、手塚治虫の漫画を知らなくては、話にならない。

そういう書きぶりなのだ。

本来はこうあるべきだということにこだわっていたら、

多くの子ども達を文章という土俵に載せにくくなるだろう。

僕なら、こだわらない。

 

 

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