国語学力がないとは

Posted By taga on 2015年3月10日

③ 正確な言葉が使えない・語彙が少ない
・ 語彙の数と言葉の不正確さはリンクしている。
語彙の少ない人間に正確な言葉を駆使できる人はいないし、
正確な言葉は使えないけれども語彙は豊富だという人も見たことがない。

・ フェイスブック上の投稿・書き込みでは、本人の意図に(おそらく)反して、
その語彙力のなさを露呈してしまっているものがある。
「しっかりやらなきゃ、です。」
「心理学的な考え方から言うと、思いは同じです。」(意味不明)
こういう言葉を使い、正しい言葉の使い方を理解できない人たちが、
教師として子どもたちを教えているのだから、
国語の学力が低下してくるのは当たり前なのかも知れない。

・ 言葉は時代とともに変化していく。
今「貴様」という言葉を敬語として使う人は、誰もいない。
 以前、僕が学級通信に「一所懸命」と書いたら、若手に
「多賀先生でも、間違えるんですね。」
と、指摘されたことがあり、苦笑した。
「一生懸命」は、もはや、正しい言葉として辞典にも載っている。
 また、ら抜き言葉も、NHKのアナウンサーが使うようになってからは、
市民権を得たと言っても良いだろう。
 だからと言って、本来の正しい言葉を使えないで、
国語の学力があると認めても良いのだろうかという疑問がある。

・ 語彙力に関しては、基本的な語彙の吟味というものが、必要だと考えている。
それぞれの学年で「これだけは知っていてほしい」語彙が確立されてこそ、
力として身につけさせたり、どの程度知っているかの評価もできる。
 現代では、基本的語彙が大きく変わってきた。
季節に関すること、伝統的な行事に関すること等が分からなくなってきている。
文科省があせって学習指導要領に加えたが、
スミレが春の植物だと分かっていない教師も増えてきているのだ。
身近に季節を感じる風物が減ってきているのだから、仕方ない。
今更、ヒバリがいつごろさえずるかが、基本的な語彙になるとは思えない。
基本的な語彙そのものを変えていく必要があるのだ。
そうしないと、子どもたちの言葉が実生活で生きて働くものには、なっていかないだろう。

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