言語が差別を助長する面がある
Posted By taga on 2022年10月18日
例えば、ヘレンケラー。
彼女の中に
めくら(blind)
黒人(nigger)
という言葉が入ってくるまでは、
そうした存在も知らないのだから、差別があるということは彼女の中には存在しなかった。
言語は、特定の連環を持って成立してくる面がある。
だから、言葉を学ぶときは、偏らないようにしなければならない。
だからこそ、複数の国語辞典を引く意味がある。
教育にかかるよしなしごとを、つれづれなるままに・・・。
「教育」というと、力の入った人か、アウトサイダー的な方かの両サイドが目立つ。
僕は、港と山にかこまれた神戸という風土で肩を張らず、妥協もせずに見つめてきた目から、今を語りたい。
Posted By taga on 2022年10月18日
例えば、ヘレンケラー。
彼女の中に
めくら(blind)
黒人(nigger)
という言葉が入ってくるまでは、
そうした存在も知らないのだから、差別があるということは彼女の中には存在しなかった。
言語は、特定の連環を持って成立してくる面がある。
だから、言葉を学ぶときは、偏らないようにしなければならない。
だからこそ、複数の国語辞典を引く意味がある。
Posted By taga on 2022年10月16日
真っ赤なペンキを塗れば、
そのもの自体も真っ赤になるのかというと、そうではない。
ペンキで塗られたから
色がついただけに過ぎない。
自分の意志でぬぐおうとすれば、ぬぐえるし、
いつかペンキそのものは風化していき、はげていく。
同じように
どうしようもない教師に教えられたとしても、
子ども本人に意志が形成されていれば、
反面教師として自分のプラスに変えていくことができる。
自分で考えて、自分で判断し表現すること、
これがその子の人生を豊かにするのだ。
Posted By taga on 2022年10月11日
「知らないことは、意地悪になる」
僕はこのことを子どもたちに言い続けてきた。
今から三十年以上も前に頂いた見知らぬ方からのお手紙。
「はじめてお便り申し上げます。
私は障碍を持った12歳の男の子の母親です。
私の息子は生まれつき、きちんと他の子どもたちのように話せません。
ときどき大声を出したり、アウアウという声も出します。
それでもなんとか中学生になったので、自分の力で学校(養護学校へ通っております)へ通わせようとし始めました。
芦屋駅までは私と一緒にまいります。そこで、自分で切符を買い、電車に乗って住吉駅までまいります。
私は離れた所にいながら、ずうっとついていっています。
あの子が人様に迷惑をかけないだろうか、ああいう子だから、人に笑われたりしないだろうか、と気になってじいっと離れた所から見つめております。
先日、お宅の学校(甲南小学校。)の三年生ぐらいの子どもたちが、うちの子を指差して笑っていました。
私は胸が潰れるようなつらい気持ちになりました。
あの子がいったいどんな悪いことをしたのでしょぅか。ただ変だというだけで笑われている子どもを見るのはとても悲しいものがあります。
あの子たちはうちの子どもがにたにた笑いながら、どんなに一生懸命に生きているのか知らないのでしょう。
どうか、子どもたちに、そのことを教えてやってほしいと思います。そして、笑われている子どもには親がいて、とても苦しい思いをしているということもー。
よろしくお願いします。」
Posted By taga on 2022年9月29日
優秀な人材が集まらなくなってきていると言われる
学校の教師。
最大の要因は、働き方うんぬんよりも、
仕事の量と質が、給料に見合っていないということにつきる。
そう思うのです。
世界との比較でみると、
教員の給与は、第15位。
それほど低いものではありません。
ただし、仕事の量と内容が決定的に違っています。
海外の多くは、家庭教育と社会教育と学校教育とで
役割ははっきりと仕分けられていて、
教員の仕事は限定されています。
また、一般的に言っても教員の平均収入は
全国平均の上にあります。
だから、
「高い給料もらっておいて、文句言うな」
となるのかも知れません。
でも、他の職種に比べて、
圧倒的に、時間をとられてしまう仕事です。
例えば、お昼休みというのは、一般企業では、完全に食事と休憩の時間です。
教員は、給食指導しています。
昼休みも、子どもの相談にのったり、子どもと共に過ごしたりすることが
真面目な教員ほど多いのです。
アメリカでは、休み時間は教員と子どもが離れています。
ボランティアの方が子どもたちの様子を観察しています。
放課後の子どもたちの言動に学校が責任を負うということはありません。
日本はそうでないところに良さがあって、
子どもたちと全面的に付き合っていくところが「やりがい」にもつながっています。
今の若い人たちの考え方は、そんなにべったりと子どもとの時間を作ることには向きません。
「自分の時間」というものを大切にします。
そういう考え方の人たちにとっては、
学校と言うところは、職場として不適切なものと映るのかも知れません。
自分の時間がとれて、仕事にはある時間集中して取り組めば良い、
教員の仕事はそういう理想像からはほど遠いものでしょう。
Posted By taga on 2022年8月31日
今日、西宮の学校で2時間講話。
最後に、子どもは宝物だという
話をした。
矢崎節夫さんの「みすゞコスモス」から。
阪神大震災で被災した耳の聞こえない御夫婦。
一人娘だけが水等の生活に必要のものの配給の声に反応して出ていく。
テレビのインタビューで
お母さんが子どもへの感謝を語る。
いや、語っているのは、
お母さんの手話を言葉にする
その子自身だった。
お父さんの言葉を声をつまらせながら
その子が言ったのは
「この子は私たちの宝物です」
という言葉だった。
この話を紹介した後、
「子どもたちは宝物なんですよ。明日学校にやってきたら、そいう思いで受け止めてあげましょう。宿題忘れを叱るよりも、宝物が戻ってきたという気持ちで。」
Posted By taga on 2022年7月7日
25年前、
一年生担任で、入学式の受付で子どもたちを出迎え、
バラの造花を胸に付けていた。
そこに現れた身体の大きな子ども。
顔は包帯でぐるぐる巻。
聞けば、空き地のドラム缶で
物を燃やしていたところへ
スプレー缶を放り込んだのがいて、
爆発。
炎が飛んで、彼の顔にかかり、
大火傷を負ったそうだ。
阪神大震災の翌年で、まだ、そういうことがあった。
彼を見て、子どもたちが
「ミイラだー」「お化けや」と騒ぐ。
暑くなってきて、カサブタの顔が疼くのか
いつもイライラしていた。
誰かが触れると、咄嗟に手が出てしまう。
「乱暴者」というレッテルが貼られる。
僕が、いくら庇って説明しても
実際、乱暴してしまうから
みんなから、浮いてしまう。
その彼が七夕の短冊に書いたのは
「ぼくはみんなとなかよくしたい」
という言葉だった。
それを読んだとき、心が潰れるような思いがした。
二学期になって、包帯もとれ、
色白だったんだと分かる頃になると
彼は友達がケンカしていたら、
二人の間にに体を入れて仲裁するまでに
成長した。
七夕の短冊を見たら、
いつも思い出して、胸が熱くなる。
Posted By taga on 2022年6月22日
今年の新卒が各地で苦しくなっているという声を聞く。
そりゃ、そうなるだろう。
コロナでいろいろなことが規制されて、かつ、仕事が増えた。
ところが、今年から自粛していた行事が復活。
プール学習や校外学習など、
どんどん普通にもどそうとする流れがある。
でも、コロナに関するプラスの仕事は減らさない。
しかも、今年の新卒は、二年間対面で人と接することに制限を受けてきている。
しかし、学校に来たら、子どもたちがいる。
マスクをしていても、体面でコミュニケーションをとっていかないといけない。
慣れるのに、時間がかかる。
新人が決定的につぶれてしまうケースは、以下の通り。
① 管理職や初任者指導者に理解がない
※「できなくて当たり前」なんだから、きちんとフォローしなければいけないのに、プレッシャーだけかけて、具体的な指導がない。
※ 自分たちの成功体験を基に、新人に同じことを要求する。
※ 他の人と比較する。(新人をベテランと比較する)
② 周囲のフォローがなく、孤独感がある。
※ マスク越しだから、表情がつかめないため、心が折れかかっていても周りに伝わらない。
※ ソーシャルスキルを職員で取りすぎると、コミュニケーションが成り立たない。
③ 保護者のクレーム
※ これについては、管理職が矢面に立ち、新人を守ることができなければ、管理職の仕事をしているとは言い難い。
④ 教室の「あの子」に振り回される
※ 「あの子」は、新人にとっては宇宙人だ。理解できない。子どもの思いをくみ取ってあげられる新人は、ごくまれである。多くの新人が対応に苦慮している。
大声で制止して、教室の空気を悪くしていることは分かっていても、「注意しないと」という思いからは逃れられない。
少しでも余裕のある先生方は、フォローしてあげてほしい。人はとことん落ちる前にちょっと手を出してもらって救われると、底まで落ち込まなくてすむのだから。
Posted By taga on 2022年6月20日
② GTОと金八先生
「金八先生」武田鉄也
思春期の子どもの大きな問題をセンセーショナルに取り上げたのが、「金八先生」でした。シンナー、徘徊、妊娠、校内暴力など、これまで触れられていなかっただけで、実際には各地の学校で進行していた諸問題を、クローズアップしました。
初期の金八先生は、まだ、教師としての力を発揮できていました。
しかし、しだいに、教師一人、いや、教師集団の力でも、どうにもならないようになってきます。後期の金八先生のトーンが暗いものになっていったと感じるのは、気のせいでしょうか。
「GTО」反町隆、アキラ
元暴走族のヤンキー先生。いわゆる暴力教師ですが、自分の生徒には手を出さないというスタンスは、はっきりしています。
昨今の体罰問題の根底には、こうした「圧倒的な暴力を子どものために使う」ヒーロー教師を求める思いがあるのだと思います。虐げられている子ども、いじめられている子ども、そうした子どもたちのために、ばしっと暴力で悪をぶっとばしてくれるスーパーマンのようなヒーロー教師像ですね。
現実にはあり得ない教師です。
③ 強い女性教師
「ごくせん」仲間由紀恵
現役やくざ一家の親分の娘。自分の教え子のために、圧倒的な暴力を奮ってさまざまな問題を解決してしまう。これも、スーパーヒーロータイプです。
ふだんはさえないけれども、
ジャージは毎回新しいファッショナブルなものに変えていて、
女性らしさもかいま見えます。
しかし、
色気は全くないというのが、コンセプトですね。
「女王の教室」天海祐希
心理的に子どもをコントロールしていく冷たい女教師。最初はそう描かれていましたが、本当は子どもたちのことを最も真剣に考えていた教師でした。子どもたちを洗脳していく過程が不気味で、当時の管理教育の在り方とシンクロするところがありました。
Posted By taga on 2022年6月19日
「教師とは、いったいなんぞや。」
「理想的な教師像とは何か。」
教師というものは、常にこういう言葉にさらされます。また、不思議なことに、教師自身も、常に「教師とは?」ということを模索しているところがあるのです。
他の職業でそういうことが常に話題となるようなものが、どのくらいあるでしょうか。
理想的な医師とは?
弁護士とはなんぞや。
警官の理想像は?
理想的社長像。
政治家とは、何か。・・・これは、言いますね。
大工さん、魚屋さん、料理人、といった職人さんでは、「気難しいものだ」とか「打ち込むタイプが多い」とか言われたとしても、理想像を唱えられることはありません。
ほとんどの職種では、仕事の内容、質のみで評価されるので、「○○像」というようなとらえ方をされないのです。どんなに人柄の素晴らしい大工さんでも、家を曲げて建てたら、だれも仕事は頼まないし、まずい料理を作る店には、板前のきっぷが良いからというだけで人が並ぶことはありません。
では、教師はなぜ「教師像」というようなことが言われるのでしょうか。それは、教師という仕事が全人格的に子どもに関わり、影響を与えるものだからです。
この教師像というものに焦点を当てて、教師というものを掘り下げて考えると、そこにこれからの教師に必要なものが浮き出てくるのではないかと考えました。
論じるにあたっては、主に二元論で考えていくことにしました。ある観点から、対比される二つの教師像を取り上げ、それぞれの特性と現実を見つめ直せば、はっきりと違いが浮き彫りにできると考えたのです。
教師に絶対像は存在しません。それは、生きている子どもたちを相手にしているからです。一人の先生のやり方が日本中のどの教室でも通用するということは、ないからです。(通用すると思い込んでいる人はいますが・・・。)そして、時代とともに、教師に求められるものも変わってきます。
Ⅰ ドラマの中の対比できる教師像
テレビドラマにおける教師像というものは、そのときの社会の実態、教育界の諸問題を反映しています。
「青春シリーズ」というものがありました。石原慎太郎の原作でも有名ですが、熱血教師が高校生たちと、汗と涙の青春ドラマを演じるものでした。
この教師像は、不良であったり、疎外されていたりする生徒にまっすぐぶつかって、「分かってくれる兄貴分」という感じのものでした。共通しているのは、さわやかで、生徒のためにすべてをなげうって必死になることでした。
夏木陽介、竜雷太から始まった青春シリーズ。
「進め青春」浜畑賢吉、「飛び出せ、青春」村野武範、「われら青春」中村雅俊。
ほかにもたくさんの人が青春熱血教師たちを演じましたが、共通しているのは、ラグビーやサッカーなどのスポーツで子どもたちを指導していくところでした。
その後も、さまざまな教師ドラマが作られ、ヒットしていきました。それらは、時代を映し出す鏡でもあったのです。
① 熱中先生とびんびん先生
「熱中時代」水谷豊
「先生はな・・・」という語り口調で、水谷豊が演じたのが、熱中先生でした。この「熱中」は、青春シリーズの「熱血」とは少し趣の違うものでした。子どもと一緒に悩み、困り、子どものためにだけ存在する教師、子どもの中へぐいぐいと入りこんでしまうという「熱中」でした。さわやかでパワーのある教師ではないけれども、子どもへの誠実さの感じられる教師でした。
「デモシカ教師」という言葉が流行するほど、「教師にでもなろうか」「教師しかなる仕事がない」といったモチベーションで教師になった人がたくさんいました。そういう程度のモチベーションで教師になっても、やっていけた時代なのです。哀しいことに、そのままそういう教師が生き残り、現在、管理職になっているというところがあります。
「デモシカ教師」と全く違うところを歩むのが、「熱中先生」だったわけです。
多くの人々の共感を得たのは、あまりにも子どもに対して適当な教師が目立ったことが、一因だろうと思います。
「教師びんびん物語」田原俊彦
同じ熱中先生でも、それから十年ぐらいして登場したのが、子どもに対してただ愚直で、まっすぐにしか対応できない教師、田原俊彦の演じた「びんびん教師」でした。
ここでは、子どもの抱えるさまざまな問題が、デフォルメはされていましたが、赤裸々に描かれていました。見ていて気恥ずかしくなるくらいに、ただ真っ直ぐに子どものことをなんとかしようとする教師の姿に共感を持ちました。
それは、教育の問題がもはや一教師の努力だけでは、どうにもならないほど、深刻になっていたことの表れかも知れません。